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不動産コンサルタント 大野レポート No.24
タカラ塾
2013年6月23日
『東北支援ツアー見聞記』
 2013年5月16日~18日、私の所属する社会奉仕団体による、3・11大震災後の東北地方への支援ツアーに参加しました。
 5月17日 仙台―塩釜―松島―被災地視察―石巻復興マルシェ―石巻日日新聞―木の屋水産―陸前高田―奇跡の一本末―気仙沼
 5月18日 気仙沼―魚市場―防災センター―南三陸町―第十八丸―中尊寺―仙台空港解散というスケジュールでいってまいりました。個人的にも、もっと早くに被災地を訪れたかったのですが、やっと3・11から二年経過後に実現できました。

 16日に、空路で仙台に到着、仙台駅前のホテルモントレーにチエックインし、午後4時30分からのシンポジューム「被災地復興と現状報告」・・・(東北4県の行政、観光協会の担当者らによる復興と現状報告)に参加した。

 このシンポジュームは、日本旅のペンクラブ主催の「旅の日5/16 於仙台」に合流し参加させて頂いたものです。シンポジュームのテーマは『東北観光の明日を考える』です。三陸鉄道社長から・・・鉄道の存在感は大きい。日常が戻ると同時に希望も生まれる。駅中心の街づくり、コンパクトシティをつくる。30店舗のグルメを紹介。来年(2014年)には全線複線できる見通しである。

 気仙沼観光協会事務局長からは・・・気仙沼は甚大な被害で、特に沿岸部の魚市場や加工施設の被害が大きい。海岸地は更地状態で(18日にこの目で確認。)平野が少ないため被災者の居住空間の創設に苦慮している。人口の減少。気仙沼は水産と観光で生きていく。気仙沼=被災地という構図は今後薄れていく。

 3人目の、いわき町づくり観光事業部長の話・・・2011年4月の余震はきつかった。会津地方は人々がもどってきてる。中通りや飯舘は線量が高い。浜通りは原発所在地のため、魚業は未だの状況です。福島の中でもエリアで差が出てきてる。ある意味で三陸や気仙沼がうらやましい。震災だけなら、方法もあったと思うが観光旅行に関しても、原発の不安があるので、風評をなくすための情報開示が課題です。データをどのように集め開示していくのか?逆手にとって、J・ヴィレッジを見せるツアーも?考えている。いわき市2万4千人の中でも住民同士の対立が生まれている。子供連れの観光客が来ない。放射能問題のため、旦那は仕事のため福島に残り、妻と子供は県外へ赴任しているという状況もある。

 最後4人目のノンフィクション作家の芦原 伸さん・・・故郷喪失感が強い。2011年3月11日震災後、すぐに訪れた当時の匂い。カモメが群れを成して飛ぶ。凶暴なカモメ。ハエがでかい。2011年3月を機に変わりませんか?歴史・文化を再検証する。東北の豊かさを中央権力が奪っていった歴史。東北の文化の発掘。馬産の地。金鉱の地。

 翌5月17日早朝よりバス1台借り切って、17名で塩釜から松島に向かいました。
 松島湾遊覧船に乗船し島めぐりをしました。
 遊覧船案内人の女性曰く、『あれだけの地震と津波で住居は全部やられましたが、幸い松島では死者、行方不明者が0で、900人全員が助かりました。日頃からの防災訓練と実際の震災の際の機敏な対応がよかった。』
 ・・・その他の地域での死者・行方不明者のことを考えると、運命を分けたものとは?


写真1
 昼食を石巻復興マルシェでとり、石巻日日新聞社社長とともに新聞社を訪問し、3・11当時の輪転機が止まった状況での手書きの壁新聞を発行していくという状況を聞き見た。又、石巻の被災した小学校(写真1.参照)へいきました。津波被災のまま保存されていて、モニュメントとして残すのかどうか賛否両論とのことです。

 復興を遅らせている事情の中に、縦割り行政の弊害が大きくある。陸前高田から気仙沼へ向かう。途中、リアス・アーク美術館で常設展示中の『東日本大震災の記録と津波の災害史』を見る。

 展示内容の命題の中に、『東日本大震災被災という重大な出来事を、地域の重要な歴史、文化的記憶として後世に伝えるとともに、日本国内、あるいは世界で行われている災害対策事業者への具体的な資料提供を行うこと。』とありました。

 震災発生直後から、この命題と向き合い、被災現場で撮影した写真は約30,000点、収集した被災物は約250点、書き写した調査記録等の膨大な資料の中から
 厳選した資料を常設展示、公開している。・・・展示資料は、現場写真203点、被災物155点、歴史資料等137点が収められています。

 前半は、【被災現場からのレポート】とし、後半は、【被災者感情として】【失われたもの・こと】【次への備えとして】【まちの歴史と被害の因果関係】の4テーマで構成されている。


写真2
 17日は、気仙沼のプラザホテルに泊まり、翌18日は防災センターから南三陸町を経て、第十八丸(写真2.参照)をたづねました。この大きな船を保存するかどうかで意見が分かれている。
この船の船主の意向は、「あの津波によって、たくさんの住居等をなぎ倒してこの地まで移動させられた。歴史展示物として残してほしい意見と、犠牲者の鎮魂を考えると解体撤去したい気持ちも強い。」という複雑な心境を吐露していた。

 現地では、瓦礫(被災物)はすべて撤去されていて、更地(空き地)状況であった。田んぼは、植込み中のところが多く見られた。復興、復旧も遅れており、現在、被災地ツアーで観光客を呼び込んでいる状態である。

 阪神淡路大震災時に、神戸にボランティア活動で(当時、布団乾燥機を持参し、仮設住宅を回り布団の乾燥のお手伝いをした。)いったときに、感じた建物の復興・復旧後のトラウマを含め精神の復興・復旧(元に戻ることではなく、リアス・アーク美術館で常設展示中のところにあったような、忘却する流れの中で、歴史的な検証を日本全体で一人ひとりがどのように、行うか?)こそが・・・
 今、一番必要であり、求められている。
 リアス・アーク美術館で以下の展示内容が一番印象に残りました。

■記憶・・・瓦礫(ガレキ)   瓦礫(ガレキ)とは、瓦片と小石とを意味する。また価値のない物、つまらない物でも、被災した私たちにとって「ガレキ」などというものはない。それらは破壊され、奪われた、家財であり、何よりも、大切な人生の記憶である。例えゴミのような姿になっても魂が失われたわけではない。しかし世間では放射能まみれの有害毒物、誰かの遺体を死体、死骸とは表現しないだろう。ならばあれをガレキと表現するのは適切ではない。被災した人を被災者と呼ぶように、被災した物は被災物と呼べばいい。

■情報・・・テレビ   現代人にとってテレビは最も重要な情報源と言っても過言ではない。地震が発生すればすぐにテレビで震源や規模、津波の有無などを確認し、その後の行動を判断する。東日本大震災では被災地にいるほとんどの被災者にテレビの情報は届かなかった。しかし、被災地以外の世界中の人々が、テレビによって被災地の状況を直後から目にしていた。その結果、世界中から多くの支援が寄せられた。
テレビが社会に与える影響は非常に大きい。しかし、テレビの情報のすべてがプラスに影響するとは限らない。テレビの情報を鵜呑みにするのは危険である。

■情報・・・うわさ   通常頼りにしている様々な情報が失われた被災地では、人づてに耳にする「うわさ話」が、社会的にとても重要な情報となる。その信憑性は不明でも、うわさの管理も含めた社会状況、社会心理状況などを推測する材料とすることが可能だ。「あの場所では携帯電話がよくつながる」、「あの場所では物資が手に入る」「こういう連中がこのようなことをしている」「あの辺りは夜間の一人歩きが危険だ」など、直後の混乱期には多くのうわさが飛び交った。
 状況がやや落ち着いてくると、それまで気にしなかったうわさが流布するようになった。「○○の辺りに、夜中、赤ちゃんを抱いた若い女性が立っている」、「○○の辺りで、夜中に一人で立っているおじいさんがいる」というようなうわさ。つまり幽霊話である。 
 直後は犠牲者に対し、そういった感覚を持っていなかったはずだが、時間の経過とともに死者との距離が広がっているように感じる。

 18日、中尊寺の近くでの昼食の蕎麦屋さんで17名全員で、一人ひとり意見、感想を発表していた際、店の奥で聞いていた店主のおばあさんが「よい話を聞かせて頂きました。支援ありがとう。」といってくれたのが、とても印象に残りました。

 やはり、3・11を忘却しないために、どんな形でも支援を続けていくことが大事で、テレビ等で見たのと違い、実際被災地を訪れてみると、現地ならではの感ずるものありました。旅先でいろいろなお土産ものを買ったり、被災地の人々と交流してみると、この地の人々の人間性(人情味あふれるやさしさ)を本当に理解できましたし、このような小さな支援ツアーも有意義なものであったと思える旅でした。

タカラ塾塾長    大野 哲弘

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